プロフィール
テコア聖書集会会員。写真編集者として勤務していた通信社退職目前にこれからキリスト者として独り立って行けるかを自問。キリスト教学を学ぶことにし、ルーテル学院大学に編入学。卒論でジョン・ハウズの「聖書と戦争」を下敷きにした内村鑑三の平和論を書き、立教大学大学院キリスト教学研究科に進学。修論で、「非戦主義者の戦死」について考察し、現在後期課程で無教会の女性史研究を進めている。
聖句
ヨハネによる福音書14章27節
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
お恵みによって本日は3年ぶりの無教会全国集会開会の運びとなりました。記念すべきこの全国集会で、僭越ながら聖書講話を担当することになりましたテコア聖書集会の矢田部千佳子と申します。
全国集会ブランクの3年間を顧みますと、思っても見なかった大波乱がいくつもこの地球に、われわれの社会に、また、私たち一人ひとりの生活の中に、押し寄せてきたことを思います。パンデミック、戦争、大規模な自然災害、政治家の暗殺、物価高騰など、暗いニュースの只中で、私たちは毎日のように恐れ、慄き、改めて聖書と真剣に向き合うときを得たのではないでしょうか。

今回のテーマは、「キリストの平和」です。準備委員会の方々がその指針とされたテクストは、ヨハネ伝の14章27節でした。受難を前に、いよいよ弟子たちとの別れに当たって、イエスは別れの言葉である「シャローム(安かれ)」を弟子たちに残すと言います。しかしそれは、「主の平和」であって、世の人たちが別れ際に「ごきげんよう」というように「シャローム」を残すのではない。だから、私たちは心を騒がすことなく、恐れることなく、平安の内に生きよ、そのような教えです。主は世が与えるように平和を与えない。今日はそのことについて考えながらお話を進めてゆきたいと思います。
聖書の平和とは皆さまよくご存じのように、ヘブライ語では今申し上げました「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」と申します。英語では「ピース」ですが、日本語では「平和」の他にも「平安」を使用します。その意味をもう少し詳しく調べてみますと、エイレーネーは、harmony(調和)とかorder of the soul(魂の秩序)、といった意味もあるようです。一方、「シャローム」は何といっても挨拶に使われます。その語根にはwell-being、元気であること、無傷であること、人間本来の尊厳を保っていること、健康と幸福が両方同時にある状態なども意味する言葉といいます。
私は今日の講話に、「主の平和—無教会キリスト教のSDGsをめぐって」という題を掲げました。「主の平和」は、こうした人間の総体的に良い状態が、主によってもたらされるということを指示しているように考えられます。敷衍すると、それは、私たちが希求する「救い」がすでに私たちのもとに来ている状態を意味し、人間同士の和合、神との和解、神の意志に呼応した健康で正常な状態、そしてまたそれは、万物にまで及ぶ広大無辺の「極めて良し(創1:31)」と神がおっしゃる世の有様なのではないかと想像します。とても単純なイメージとしては、我々が追われた楽園に主と共に在ることといえるかもしれません。
さて、次に、もう一つ掲げたテーマのSDGsについてです。今この頭字語を新聞やテレビで見ない日はなくなりましたから、皆さんもすでに親しまれているでしょう。2015年9月の国連サミットで加盟国全会一致で決議されたのが、17項目からなるSDGs(持続可能な開発目標)です。翌年の2016年から2030年までの15年間に人類こぞってこの地球が持続可能になるようにしよう。自然環境ばかりでなく、人間もまた、だれ一人取り残さない、多様性と包摂性のある社会を実現しようと掲げた目標でした。
私は『今井館ニュース』の編集を手伝っていますが、第49号の学校・学寮だよりには、愛真高校でもその取り組みが自主的になされたことが記されていました。また、『登戸学寮ニュース』第11号には、「黒崎幸吉賞」の選考にはSDGsの理念が取り入れられたという記事が掲載されています。
さて、みなさんは、この17項目がどんなことを謳っているのかご存知でしょうか。
UNICEFのチャートによれば、
1.貧困をなくそう
2.飢餓をゼロに
3.すべての人に健康と福祉を
4.質の高い教育をみんなに
5.ジェンダー平等を実現しよう
6.安全な水とトイレを世界中に
7.エネルギーをみんなに、そしてクリーンに
8.働きがいも経済成長も
9.産業と技術革新の基盤をつくろう
10.人や国の不平等をなくそう
11.住み続けられるまちづくりを
12.作る責任、使う責任
13.気候変動に具体的な対策を
14.海の豊かさを守ろう
15.陸の豊かさも守ろう
16.平和と公正をすべての人に
17.パートナーシップで目的を達成しよう
ざっくり言うとこのように設定されています。2022年の今年が丁度半分の道程を過ぎたところとなります。改めて復習してみますと、16番目の「平和と公正をすべての人に」、と謳われた目標以外は、平和の文字が見当たりません。しかし、実はその一つひとつの内容を見れば、今わたくしたちが見てきました聖書が言う「主の平和」の本質を、現代的要素を取り入れて嚙み砕いた項目になっていることがわかります。少しナイーブかも知れませんが、私は、SDGs=主の平和、という命題を立てたいと思います。こうして各国で、またグローバル企業などにおいて、PR合戦も伴った様々な取り組みが始められたのでした。17色に彩られたバッジが販売されたり、本末転倒と揶揄されそうなエコバッグの氾濫を来したり、すでに胡散臭いという批判を持つ人も出て来ています。それでも、殊にZ世代とかミレニアル世代と呼ばれる若い人たちが、積極的な活動に参加し始めたことは、画期的で希望にあふれる事だったと言えるでしょう。ついこの間私も、20代の活動家から、若い女性議員を増やす運動に参加しませんかと誘われました。それから、斎藤幸平さんという学者は、「コモン」という共有財を再生する脱成長の社会を提唱しています。彼の主張は「資本主義のあくなき利潤追求」にストップをかけようというもので、私は「金、金、金」の20世紀の呪縛から逃れる一つの解決策ではないかと考えています。
こうして推し進められてきたSDGsでしたが、皮肉なことに2019年末に発生した新型コロナウィルスの蔓延によって、世界が一変しました。私たちが一斉に外出を抑制されたおかげで、大気汚染は3割程度が改善したと言います。しかし、死者は600万人を超え、折角一致をみて、皆で世界をよくしようとした人間の知恵が踏みつけられた感じがいたしました。本当に心が折れてしまった人もたくさんいました。
私たちはこのパンデミックによって、3つのことを教えられたと思います。1つは、私たちは引きこもって生きられる生き物ではないということ。2つ目は、政治の質、指導者の言葉の軽重が敏感に識別できるようになったこと。誠実な言葉を持つ人は国を超えて尊敬を集め、結局薄っぺらな言葉しか持たない不誠実な指導者たちは、そのポストを去ることになった。これはとても不思議な出来事だったと思います。3つ目は、人々を強者と弱者に分断したということです。貧困層はさらに悲惨な状況に落とし込められました。あるいは、見方を変えれば、すでにあったものが可視化されたにすぎなかったのかも知れません。SDGs17項目すべてが、絵空事のように見えました。
ここに、私の命題が破綻しそうな、「主が与えて下さる平和」と、人間のすることの大きなギャップがあるのかも知れません。私たちはもう忘れそうになっていますが、トイレットペーパーや小麦粉の棚はすぐに空っぽになりました。トイレットペーパーは価格が暴騰しました。フードバンクには長蛇の列ができました。実に、トイレットペーパーは人間の自己中心主義のバロメーターの役割を果たしているようです。
そうして、ようやく社会生活が元に戻る兆しが見えて来たとき、今度は侵略戦争が起きました。戦争についてはこれから水戸潔さんが詳しくお話ししてくださることと存じますので、私はそれ以外のことをお話ししたいと思いますが、一つだけ、アメリカの思想家ノーム・チョムスキーの見立てを申し上げておきたいと思います。ロシアとウクライナの間の戦いの初期,あるいは始まる前に戦争を止める手立てがあったといいます。しかし、西側諸国もメディアもそれを無視してしまった。また、この戦争の背後には、「主の平和」に拮抗しようとする魔の力、アメリカの軍事産業が瞳を輝かせて立っている恐ろしい構図があるらしい。チョムスキーのこの見立てをお伝えしたいと思いました。何故なら、その魔の力が、沖縄の基地問題の根底にも存在すると思うからです。横道にそれますが、つい最近その沖縄の長い苦しみの年月を学ぼうともせず、地道な反対運動を揶揄して自分の快楽にする輩が話題になりました。こうした者たちには、震えるほどの怒りを覚えます。
そして、戦争の次は、極端な気候変動の発生です。水力発電所に水がないなどという話は聞いたことがありません。この夏、スイスやオーストリア、また、中東で、そんな現象が起きました。一方で、乾燥で土ぼこりが舞うのが常だったパキスタンでは国土の3分の1が洪水で水に浸かったといいます。日本でも9月になると毎週末台風がやってきて各地に尋常でない大雨を降らせました。集中豪雨によってわれわれの日々の生活は著しく脅かされるようになってきました。現実に給水やトイレの問題が発生した地域もありました。スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさんの警鐘はパンデミックや戦争によって一時忘れられた感がありましたが、改めて彼女の言葉を噛みしめなくてはならないでしょう。
僅か3年の間に起こった主な出来事をつらつら申し述べましたが、このようなことの中に、聖書が我々人間について教えてくれることがなんと多いことか。今こそ私たちは今日のテクストを繰り返し学ばなければならないでしょう。人はどのように平和を与えるのか。想像できることは、やれ戦闘が静まった、穀物の耕作が再開した、ウィルスをやっつける薬がみつかった…だのと「良い」ニュースで一時の平安を与えるかもしれないが、我等の主イエス・キリストの平和は、決して気休めではない。恒久の平和なのだということです。内村鑑三は「平和の長短」という短文の中で、武力をもって来たらせた平和は瞬間的——一瞬の平和——であり、政治をもって来たらせた平和は、暫時的——ほんのしばらくの平和——であり、キリストの福音をもって来たらせた平和のみ永久的——恒久平和——である(『全集』12巻, 435頁)と記しています。「恒久の平和」とは、普通の「平和」とどこが違うのでしょうか。それは勿論、神の力が働いているということでありますが、神の側には常にゆるぎない「正義」と「公正」が裏打ちされている。そして、それはただ十字架に拠っているということなのでしょう。
次に、私が取り上げたいのは「無教会キリスト教をめぐるSDGs」です。人権の視点から、無教会における「だれ一人取り残さない、多様性と包摂性」について考えたいのです。主イエスは、周縁化されていたガリラヤの民と共に生きました。さらに、卑しい身分の取税人や罪人と食事を共にしてファリサイ派の人々の顰蹙を買っていました(マルコ2:15-17)。女性たちを粗末に扱いませんでした。今改めて、無教会キリスト教とはどのような集団なのかを問いたいと思います。内村鑑三はその定義を、「教会を持っていない人の教会、家を持っていない人の家、精神的な孤児のための孤児院」(『全集』9巻,70頁)と記しました。
今日もこうして様々な地域におられるさまざまな教友の顔を見ることで、私たちの集団の多様性をつぶさに知ることはまことに感謝です。私たちは本来ガリラヤの民と同じような行き場のないマイノリティの集団であったのではないでしょうか。「無教会」は決してきらびやかなブランドではないことを改めて確認したい。その上で、私たちの中に包摂性はあるのかを今一度問うてみる必要があるでしょう。
私は皆さんとジェンダー平等について意見を分かち合えることが出来たらと考えます。私たちの間に様々なハラスメントはないのか、性的マイノリティであるLGBTQAX差別はどうか、DV(ドメスティック・バイオレンス)はないのか…。
ジェンダーやフェミニズムという言葉を発すると、中には、ぐっと肩に力が入ったり、手を握りしめたりしてしまう方もいらっしゃるかもしれません。ジェンダー平等やフェミニズムというのは、何も女性が男性をなぎ倒して、自分たちが権力の座に就くのだ、というような勇ましく、乱暴な運動ではありません。フェミニズムは常に弱者に、虐げられたものたちに、関心を寄せて来た運動だと言って良いのだと私は考えているのです。
現代はSDGsの周知によって、少しずつ人々の意識が変化してきましたが、歴史的に女性がする仕事として任されてきた事柄の中に、家事、育児、介護、が最低限の3つの柱として据えられていました。内村もこの3点は彼の「クリスチャン・ホーム」の理想の中心に据えていたようです(『全集』1巻、411-18頁)。さらに、これらの仕事をおろそかにする女性はとんでもないというようなことを言っています。その発言の是非について今日は細かく話しませんが、ジェンダー平等やフェミニズム運動の中心には、女性自身を含んだ現実生活の中のマイノリティの問題があり、弱者の犠牲を強いて成り立つ社会はおかしいという心の底からの叫び声があるのです。それだから、フェミニストたちは社会の不寛容や理不尽さに敏感だということに過ぎません。というより、日常的にそういうものにさらされている現実が継続的に、今も、あることを自覚させられているのです。
例えば、私たち、無教会キリスト教徒には聖書を学ぶことに大義があります。私は、これは、確かに大事なことだと考えます。しかし、長い間「ホーム」という伝統の中で、その優先権は家の主人たる男性にありました。典型的な例は、男性たちは、毎日職場から帰り、夕食を済ますと、一人で机に向かう。真理を追究しようとする孤高の背中が見えるようではありませんか。それがルーチンとなり、また当然のことになった。そして、もっと、もっと勉強するために高価な書籍も買わなければならなくなる…。皆さん、下を向いて笑っている場合でしょうか。この男性が結婚していて、父親だったりすると、どうなりますか。子育てや、家計のやりくりは、ときに配偶者の肩にのしかかることになってしまう。そういう女性たちの胸中はといえば、夫を100パーセント支持していたかどうか疑わしいところもあるのではないですか。むしろ、蔭で泣いていた人もいるかもしれない。が、大義には勝てません。こういう無教会の伝統に、窮屈さがあると批判する人がいるのも事実です。
もちろん、実は、私たち女性も、同じカルチャーの中に在って、多かれ少なかれ似たような「大義」を抱えていることを、申しておかなければなりません。学びは必要です。しかし、その「大義」におかしいところはないのかを、私たち全員が、SDGsの17の指針に合わせて、繰り返し問うてみる姿勢が大切だと思います。
ある先輩が、無教会の女性史を研究する私に何故「女性」が問題なのか、きっちり説明せよと迫ります。共同体内で常にどちらかというと、一段下がった価値を押し付けられてきた存在であるからと申しますと、では、留学生、特に近隣諸国からの留学生たちに対する日本社会の差別は、女性に対するその比ではない、とさらに詰め寄られます。それをどう考えるのか。応答しなければなりません。本当に恥ずかしい現実が立ちはだかっています。それを言われると顔をあげることが出来ません。どうして我々日本人は、亡くなった元首相率いる歴史修正主義者たちがこの国の中心で跋扈するのを許しているのでしょうか。私たちにはそれを是正する何の力もないのでしょうか。
私たちの主が全ての人間に個別に与えて下さった人権、その人間としての価値と尊厳を軽んじる風潮は、全て底辺で繋がっているのだと思います。女性の地位を示すジェンダーギャップ指数が、日本は、世界156か国中120位という低い順位をキープしていることはかなり知られていますが、英国の慈善団体が「世界人助け指数」というものも発表していて、それによると2020年日本は、114の国と地域のうち、最下位であったという記事を読みました。(朝日新聞2020年6月27日朝刊)。私たちの社会は、冷たく、包摂とは対極の排除の社会ではありませんか。
こうしたことを喚起したいのは、今回その政治家を暗殺した狙撃犯がどのような人だったかを知るにつれて、彼の人生のもっともよい時であるべき20代30代が、極めて悲惨な20年であり、その年月をたった一人で苦しんできたと分かってきたからです。この狙撃犯に限りません。悲惨な事件を起こした犯人たちの背景が明らかになると、彼らが凶器を取る前の苦しみの声に応答する人がだれもいなかった現実が存在するという共通項があることに気付かされ、暗澹たる心持ちになります。
多くの論者たちがいうことは、彼らは「生きづらさ」を解消するすべを持たなかった、「トラウマの連鎖」にはまり込んだ、「自己責任という呪い」にかけられた‥‥。しかし、実は彼らの叫びに応答する人が誰もいなかったということに尽きるのではないですか。私は、そう思います。今私が申し上げているのは、犯罪者に対する同情ではありません。そのようなことは断じてありません。そうではなく、何故私たちはそんな社会を良しとし続けているのか、と問うているのです。
私は今年のカンヌ映画祭で話題になった是枝裕和監督の『ベイビー・ブローカー』という映画を見に行きました。日本にも「赤ちゃんポスト」という産んでも育てられない女性が、育ててくれる人に托すための病院がありますが、この映画の舞台は韓国で、赤ちゃんポストは教会という設定です。金に困った男が、赤ちゃんを置きに来る人を見張っていて、赤ちゃんが来たら、横取りして金に換えて儲けようという話で、ロード・ムービー仕立てです。それを追跡する二人の女性刑事が物語に絶妙な味を添えているという、質の高い娯楽作品でした。
このベイビーを中心に据えて、この子を囲む登場人物は社会の隅っこに追いやられた人々ばかりです。しかし、監督は、彼らを一人も悪人に描いておらず、赤ん坊(=子供)は社会全体のもの、すなわち公共の財産(=宝)、であり、社会の全員で育てるものだというメッセージであふれています。ベイビーの母親は、性産業で働いていた。が、自分の子供の行く末を見届けなければ離れられず、よこしまな男たちに同行することになるのです。彼女はただ自分の子のそばにいるだけです。監督は、授乳さえ、その子を欲しいという別の女性にさせて、母親なんだからおっぱいをあげろ、という圧力を全くかけていないのです。母親がすべきことを周りの人々が全て行い、「子育ては産んだものが1人でするものでなく、社会全体の作業なのだ」という大きなテーマが見えたような気がしました。犯罪を立件しようとしていた刑事たちさえも、子育てに巻き込まれてゆくのです。
われわれの社会がこの映画の描くような豊かな人間関係を育む共同体であったら、そもそも狙撃犯の母親は統一協会の罠にはまったでしょうか。映画を見て、私はそんなことを考えずにいられませんでした。
私たちは、何をなすべきか、どう生きなければいけないか。改めて使徒パウロがコリント教会の人々に力を込めて訴えかけた手紙を読んでみたいと思います。パウロは言います、
一人の方が全ての人のために死んでくださった以上、全ての人が死んだのです。その方は全ての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
(IIコリ5:14-15、聖書協会共同訳)
私たちは、主イエス・キリストによって、すでに新しい創造の中にあり(IIコリ5:17)、キリストの中に生きているのです。キリストは、私たちの平和であり(エフェソ2:14)、十字架によって敵意を滅ぼして下さった(エフェソ2:16)。それをただ感謝し、パウロを模範として、私たちも主の使者となる責務があるのです。この世の理不尽を特定し、助けが必要な人々を探し出し、彼らを包摂する社会を造るため、地の塩となって働かなくてはなりません。それこそが私たちの「大義」とならなくてはなりません。私たちの学びはそのためのものであり、先ず私たちの足元を照らして吟味しなければなりません。弱者の犠牲によって私たちの生活や社会が維持されてよいわけがありません。それは決して「主の平和」ではありません。
じわりじわりとこの社会を悪い方向へ導こうとする邪悪の力に、小さいながらも抗わなくてはなりません。古(いにしえ)のイスラエルから預言者イザヤが叫ぶ神の言葉はすでに私たちのものだからです。
恐れるな、あなたと共にわたしはいるから。
たじろくな、わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを雄々しくし、さらにはあなたを助け、
さらにまたわが義の右の手で、あなたを支える。
(イザ41:10) (関根清三訳、岩波書店)
注:『全集』と表記された内村鑑三の引用は、
『内村鑑三全集』全40巻、1980–84、岩波書店による。